新着情報

2022.04.27

病気への決断、「二人の渡邉賢治」

 さて、今日は今回の悪性リンパ腫に罹患し、治療に至るまでの私自身の「決断」に関してお話ししたいと思います。

 少し2クール目の経過をお話しします。426日火曜日に一番メインになる抗がん剤、メソトレキセートの大量投与とオンコビンの投与を行いました。メソトレキセートによる副作用が出ないようにしっかり利尿を図ることが大切で、十分な輸液と口からも水分を摂り利尿剤も×必要があります。しっかり利尿もあり、特にいまのところ副作用もなくまずまずかなあと思っています。72時間後のメソトレキセートの血中濃度を測り基準値以下ならもう一つの抗がん剤、リツキサンを投与する予定で、それが終わると2クール目が終了します。

 さて、話は戻って今回の悪性リンパ腫に関しての私の「決断」です。そこには一つキーワードがあります。それは「二人の渡邉賢治」です。一人は一般人としての渡邉賢治、そうしてもう一人が医師としての渡邉賢治。この二人の「渡邉賢治」が微妙に「決断」に絡み合ってきます。

今回の確定診断までの経過です。329日に緊急で入院をしました。入院時は本当に全身がぼろぼろの状態でした。ホロ門のバランス、電解質のバランスが全てばらばらでした。入院当日外来から直ぐに造影でのMRIを撮影しました。そうすると、36日に症状が出て7日のMRIでは明らかにわからなかった腫瘍が脳の下垂体の近くに病室されました。これが今回の原因ということがわかりました。ただ原因がわかってその腫瘍がなんであるかは確定できません。

 臨床症状やMRIに描出された主要、そしてその場所からリンパ腫というある程度の診断がつきました。でも確定診断ではありません。そこで、血液内科の先生と脳外科の先生とで相談され47日に脳外科による腫瘍の生検検査を予定することになりました。ただ、右目の動眼神経麻痺(瞼が開かなくなる。眼球の動きが悪くなる)の症状が有ること、そして、左目も何かモロモロとしたものが浮遊していて見えにくいなどという症状が有り、眼科にも受診していました。その眼科の先生が、この左目の浮遊物も今回の病気のリンパ腫にもみられる所見と診断され、脳外科での政権の日までに浮遊物の検査結果が出るようにとのことで44日に硝子体手術で浮遊物を取り除き、硝子体手術をすると白内障の悪化が起きることがあるため白内障手術を一緒にすることになりました。この手術に関しては二人の渡邉賢治の意見は一致していました。浮遊物がなくなること、また白内障手術をすることで今よりも良く見えるようになること、そしてその浮遊物の検査で確定診断ができることこの理由で直ぐにお願いすることに「決心」しました。脳外の生検手術までに結果が出るように手術を組んでいただいたがんかの先生には本当に感謝です。

 母児手術が終わり、そしていよいよ浮遊物の検査結果です。血液内科の先生からのお話しでした。まずは予想していた以上に浮遊物から細胞が採取できたということでした。そしてその細胞の構成がBリンパ球であり、そしてある一部の特定されたBリンパ球がクローン的(同じものがどんどん増える)に増えているとのことでBリンパ球の悪性リンパ腫との診断とのことでした。悪性リンパ腫は血液の癌です。ですから脳の下垂体の近くに限局して腫瘍として現れた悪性リンパ腫という診断になります。

 ですが、今回はここで終わりませんでした。ここから二人の「渡邉賢治」が意見を交わしあいます。

 血液内科の先生のお話が続きます、確定診断は悪性リンパ腫でいいです。ですが採取できた細胞が少ないです。例えば、悪性リンパ腫の治療を行い、その効果があまりなかった時にしっかり採取できた組織があると、もう一度見直すことができる。そういった意味で47日の脳外科の生検手術の意味はある。といった内容のものです。もう一度血液内科の上の先生や脳外科の先生とで、生検検査をするかどうか検討すると出私にも考えておいてくださいとのことでした。しばらくたって、血液内科の先生が難しい判断です。原価の手術で確定診断は悪性連覇種でいいと思います。そこに脳外科による比較的侵襲のある生検手術をするメリットをどう考えるかです。しっかり組織を採取することはできることはメリットです。しかし一方頭の骨に穴をあけ、硬膜を切除して腫瘍を生検してくる。このリスクがデメリットです。侵襲があること、術後に髄液瘻ができてしまうとその治療もあり、悪性リンパ腫への治療が遅れるデメリット。脳外の手術はあくまで生検検査が主で腫瘍の摘出が目的ではないこと。あくまで悪性リンパ腫は血液の癌なので抗がん剤投与による化学療法で治療することが必要であること。この話を聞いた後、二人の渡邉賢治は話会います。やはり一般人の渡邉賢治は、脳外科による全身麻酔での生検検査は怖い。眼科の手術で悪性リンパ腫と確定できているのであれば、脳外の生検手術はせずに直ぐに悪性リンパ腫の治療に移ったらいいのではと。医師としての渡邉賢治はやはり治療によって効果が出なかったときに十分な組織があればその後の治療に役に立つ。また摘出手術ではなく、一部生検によって組織を摂ってくるだけなので摘出手術よりもリスクが低いのではないか。しっかり組織が手元にあることが必用ではないかという意見。血液内科の先生も脳外科の先生も迷ってられるということはやはり生検の必要性を感じておられるということ。私自身が「生検しましょう。」と言って皆さんが同じ方向を見て進まれた方がいいのではないかとも考え、その時は医師としての渡邉賢治の意見で、生検するという「決断」をしました。でもこの「決断」は覆ることになりました。生検手術を行う前日の水曜日に私は脳外科の病棟に移りました。この時は生検するという「決断」の元です。その日の午後最後にもう一度脳外科の先生が確認に来られました。「明日の生検手術を行っていいですか?」の質問をされました。脳外科の先生からもこれまでと同様のお話、メリットデメリットをお聞きしました。そしてそれとは別のお話をされました。「今は脳外科で悪性リンパ腫かどうかを生検手術で確定診断をしています。今日もお一人その生検手術がありました。でもこれからはどんどん変わっていくと思います。今回のように硝子体内の浮遊物や髄液などをフローサイトメトリーで調べ確定診断に至るようになっていきます。そういった意味で脳外科の出番は少なくなっていくでしょう。また、入院時のホルモンのバランスが崩れていたので、少量のステロイドを内服されています。そのことで症状がどんどん良くなってきています。腫瘍も入院時よりちいさくなっている可能性もあります。」というお話でした。またここで二人の渡邉賢治は迷いました。「どのくらい待っていただけますか?」の質問に「手術室の準備もありますから、1時間後に来ます。」と。ここでまた二人の渡邉賢治の葛藤です。特に医師としての渡邉賢治が大きく揺れました。その原因は、「今回のような硝子体の浮遊物や髄液のフローサイトメトリーによる確定診断が主流になる。」ということばです。1時間というとても短い時間。いらっしゃった先生の科をを観ながら、「手術室、先生方の準備などしいぇいただいていましたが、申し訳ありませんが、生検手術はやめ、悪性リンパ腫の治療に入ります。:」と。先生はにっこり笑って「わかりました。」と。生検手術を押し付けることなくあっさり私の意見を受け入れて下さいました。

 翌日、今度は血液内科の病棟に移り、血液内科の主治医の先生から、「早期に悪性リンパ腫の治療が始められるようになりました。頑張りましょう。」と。1クール目が終わった後「とても良いスタートが切れました。」と。まだ2クール完全に終わっていませんが私自身の実感としていまのところ激しい副作用もなく、どんどん良くなっていると思います。今後治療効果を観ながら5クール進め、最後に自家血移植。まだもう少しかかりますがとても期待しています。私の「決断」が正しかったかどうかはまだまだ先にわかります。でもきっと正しかったと思います。復帰の際は、また皆さん落ちおからをかして下さいね。よろしくお願いいたします。今後の経過もブログでアップしていきたいと思います。

少し長くなりましたが、終わりにしたいと思います。

2022.04.26

渡邉医院、休止の「決断」

 今回、悪性リンパ腫になり入院して抗がん剤による化学療法での治療をするにあたり、様々な「決断」を迫られる場面が多かった。しかも「決断」を考える時間が本当に短い時間で「決断」しなければならないことが多かった。

 現在渡邉医院は休止しています。今の状況では91日に再開を予定し目指しています。

 さて、「決断」ですが、入院するということに関しては、これはどうすることもできないし、私自身決断するもなく、必然的に入院となりました。その時の私を見ていたスタッフ、そして私自身、入院は必要であり、入院するかしないかを決断するまでもないほどの状態でした。ただ、入院してからが「決断」の嵐でした。大きくは五つ。まずは患者さんのこと、そして渡邉医院のスタッフのこと、そして渡邉医院のこと、家族のこと、そして私自身のことです。

 患者さんに関しては、まずは手術の予定が決まっている方。やっとの思いで肛門科の敷居を超えて、仕事などの調整をして手術日を決めてもらったのにそれをキャンセルしてもらわなければならない。とても辛い決断です。しかも私はすでに入院してしまっているので、看護師さんや事務の方総出で患者さん皆さんに連絡していただいた。スタッフにとっても大変な作業だったと思います。これと反対のことは一度ありました。それは、私の父が脳梗塞で倒れ、急遽私が京都に帰ってきて診療を引き継いだ時です。この時は、父が倒れて手術ができなくなり、息子の私が手術をしても良いかということを手術予定の患者さん皆さんに連絡して聞いた時です。患者さんの中には「お父さんのDNAが流れているのでお任せします。」とおっしゃる方もいて、手術予定の患者さん、皆さんがキャンセルされることはなく、私の手術を受けて下さることになりました。後から考えると、このことはこれまで祖父や父が行ってきた治療、医療が本当に患者さんのための医療であったことの照明だったのだと思います。私も、祖父や父のように、しっかり患者さんに医療が提供できていたか、そのことが今後問われてくるのかなあと思います。

 また、患者さんに関しては、手術をしたばかりの患者さん。そうでなくても、やはり術後3日間、その後は約1週間後、さらに1週間後そして2週間後と言った大事なポイント診察できなくなるといったこともあります。また、定期的に受診されている患者さんの治療等、多くの課題があります。こういったことをすべてクリアすることはできません。本当に患者さんにはご迷惑をかけたと思います。

 次に渡邉医院のスタッフのことです。

 329日に私が入院した後は、渡邉医院は休診としました。休診とは知らずに受診される患者さんや電話での問い合わせへの対応のため、交代で診療所に来てもらっています。

 ただいつまでの休診のままではやっていけません。休診のままでスタッフを雇用し続けることはできません。収入も全くなくなり、一方ではスタッフの給与、健康保険料、厚生年金等出ていくものがあります。休診では1か月も持ちません。やはりスタッフには退職してもらい、いったん渡邉医院は休止にしなければなりません。代診の先生を探して診察を続けてもらおうかとも考えました。でも、肛門科という特殊な診療科。内科的な診察だけでなく、手術もあります。なかなか肛門科の代診の先生はいらっしゃいません。また無理して代診の先生に来ていただいたとしても、これまでもそんなに収入があったわけではありません。これまで以上に収入が減ると、やはり渡邉医院を続けていくことはできません。そこで思い切って休止にすることを決断しました。祖父の時代から私の時代まで。すでに95年は立っていると思います。再開すると入っても、これまでの95年の歴史を通じて初めてその歴史にいったん終止符を打つ。とても辛い、切ない思いがあります。必ず再開して新たな渡邉医院を作り上げていかなければならないと思っています。

 そうゆうことでスタッフの方には入院中だったので電話で渡邉医院を休止して、スタッフの皆さんは退職ではなく、診療所の都合による解雇ということになるとお伝えしました。診療所の都合による解雇の方が早く休業補償を申請できるとのこともあるので。給与は払えなくなるのであればできるだけ早く休業補償を申請できるようにしたいというきもちがありました。スタッフ一人一人の生活があります。

 幸いにも、抗がん剤による化学療法が1クール終わった時点で、いったん退院することができました。スタッフ皆さんに時間をとっていただき、電話ではなく、直接皆さんの顔を見てこれまでの経過、今後の治療の予定、そして渡邉医院の今後をお話しすることができて本当に良かったと思います。

今現在の目標は、91日に、新しくなった渡邉医院の再開です。新たなスタート、歴史を作っていきたいと思います。皆さんも見守って下さいね。

少し長くなったので、今回はここまでにして、次回私自身の決断についてお話ししたいと思います。

2022.04.25

4回目の入院。「膝の手術を決心」

 今回で最後、第4回目の入院の想い出です。今回は、痛めていた半月板。いよいよ手術で治した思い出です。

 さて、少し現在の私の治療をお話しします。

 悪性リンパ腫に対し抗がん剤での化学療法を行っています。今日から2クール目の治療の準備、明日、抗がん剤の投与です。中心となる抗がん剤がメソトレキセートの大量投与。それに加えてオンコビンの投与です。メソトレキセートを大量にいくため、十分に尿中に排泄しなければならないので、十分な輸液と口からもしっかり水分を摂ろうと思います。利尿剤も一緒に投与します。トイレに行く回数、量も増えます。頑張りますね。

 さて、本題の4回目の入院です。

 今回の入院は、医者になって4年目頃のことです。

 私の時代は、まだ医局制でした。国家試験に合格した後、私は日本大学医学部の第3外科(現在は消化器外科です)に入局しました。やはり、渡邉医院が肛門科に特化した診療をおこなっているので、肛門疾患も治療している消化器外科中心の第3外科に入局することにしました。その当時の第3外科の教授が坂部教授と言って、肛門の手術なども積極的に行っていたことも入局する理由になりました。また坂部教授も渡邉医院のこと、祖父と父のことを良くご存じで、医局の宴会の時に私に「お前のことは、お前が生まれる前から知っている。」など声をかけてもらったりしていました。

 そのころの医局制、とても面白い仕組みでした。やはり大学時代の部活の先輩後輩の関係があったり、各科に臨床実習に行っている際にも「医局に入らない?」といった部活の勧誘みたいな感じもありました。

 入局して3年が過ぎると、麻酔科での研修があります。手術だけでなく、麻酔もかけることができるように研修を受けます。その麻酔科の研修が終わるといよいよ関連病院への1年ちょいの出向があります。1年ちょいずつ2か所の病院に出向します。言ってみれば3年間の経験実績をさらにレベルアップする、実地でしっかりとさらに勉強するといった意味合いがあったと思います。その二つ目の病院に出向した時に、以前から具合の悪かった左膝の半月板損傷に対しての手術をその病院でしました。

 病院勤務中の手術、今回とは違って外科医は私だけではありません。外科はチームで行うので、外科チームの構成は、私と私の同級生1人、上司が2人の計4人でのチーム医療です。

 高校の時に痛めた半月板を手術で治そうと決心した理由は、やはり長時間の手術になるとどうしても徐々に左膝が痛くなってくること。また、回診中にロッキングと言って、損傷した半月板が引っ掛かり、膝が動かなくなったりするようになったからです。

 同じ病院で働く日本大学の先輩の整形外科医に手術をお願いしました。そうすると、先輩の整形外科医は日本大学に戻って手術をするものだと思っていたようで、私が「先生、手術お願いしますね!」と言うと、「おれでいいのか?」と。「信頼していますから。」

 手術は無事終了。周りの方々には迷惑をかけましたが、仕事というリハビリをしながら、無事復帰しました。

 千葉県の銚子市にある病院で、犬吠埼等、雄大な海に囲まれ、そして海の幸がとても美味しかった思い出です。

 今回でこれまでの入院歴、そして想い出はおしまいです。

2022.04.25

3回目の入院、「結核性胸膜炎」

 今日は、ゴールデンウイーク前の最後の1週間の始まり、月曜日です。京都はとてもいい天気です。

 私は、今日から悪性リンパ腫に対しての抗がん剤による化学療法の2クール目に向け、再入院です。全く暗い気持ちはありません。この1クールが終わって一時退院させていただきましたが、この間もぐんぐん良くなっていく感じが、実感として出ています。治療が楽しみといっていいぐらいです。今日も、なんか変ですが、遠足に行くようなウキウキした感じで再入院へと病院に向かいました。いよいよ2クール目、まだまだ2クール目ですが、とても楽しみです。

 さて、これまでの入院してきた思い出をご紹介してきました。今回はその3弾目になります。今回は前回2回と違い、「痛そう!」ではありません。

 3回目の入院は、私が大学1年生の時です。この時は内科的疾患でした。

 私は、2浪しています。浪人中は京都の実家で受験勉強をしていました。そのころ祖父が結核に罹患していて、その濃厚感染による結核性胸膜炎での入院です。

 浪人中は私は20歳。今から42年前です。「えっ!結核!」と思われる方がいらっしゃると思いますが。まだまだ結核の患者さんはいらっしゃいます。祖父も若いころ結核にかかった経験があり、その再発でした。咳などをしていましたが、自宅での療養でした。この際に濃厚感染となったようです。特に浪人中、大学にやっと入学できた後もなんの症状もなかったのですが、1年生の11月に息苦しい症状が出て、だんだん症状が強く成っていったため、大学病院を受診したところ、胸膜炎による供水が右肺に約2000mlも溜まっていました。十数歩歩いたら休んで、また十数歩歩いたら休んでといった状態でした。いろいろ検査をしましたが、結核菌の排菌は認められなかったので、結核病棟に隔離されることなく、一般病棟での治療となりました。

 発症した原因は何かなあと考えてみました。大学時代、美術部に所属しました。以前、スポーツが大好きだとお話ししましたが、結構絵を描くのも好きでした。ブログでも私の書いた自転車のある風景や子猫の絵を紹介したことがあります。膝も悪くしているし運動部は無理かなあ、でも何か部活に入りたいとの思いで、もう一つ好きだった絵を描くこと、美術部入部していました。

 11月は文化祭。それに向けて、油絵で自分の作品を描くのと同時に、文化祭に使う各種の看板や、ほかの部から頼まれた看板などを夜通し描いていました。連日徹夜同然の状態で製作をしていたことが誘因になったのだと思います。でもやっぱり文化祭、美術部にとっては腕の見せ所。その当時は夜通しの作業や、皆で合同での作品製作がとても楽しかったことを憶えています。

 さて、結核性胸膜炎の方ですが、入院してすぐに右肺に溜まっている約2000mlの胸水を抜いてもらうと、スッと呼吸も楽になりました。後はゆっくり抗結核薬の内服や注射による治療、そして療養。でも3か月の入院になりました。この間に、楽しく入院生活を送る術を身に着けたと思います。2年生に進学できるかという心配もありましたが、友人たちの支えもあって、病室での勉強、病室からの試験を受けに行くことで、無事進学することもできました。

 こんな感じで、3回目の入院を終了しました。

 次回4回目の入院に関しての想い出をお話ししたいと思います。次回は医者になってからの入院です。

2022.04.24

現在の私の病状と治療状況のご報告

 4月も残すところ後1週間。そしてゴールデンウイークに入りますね。

 皆さんは、どうお過ごしでしょうか?ゴールデンウイーク、楽しい計画をおたてでしょうか?

 新型コロナウイルスの感染に注意して、楽しい思い出をつくって下さいね。

 さて私、渡邉賢治は、329日に緊急で入院となり今加療中です。突然の入院、そして渡邉医院の休診。皆様に本当ご迷惑おかけして、本当申しありません。

 今の私の病状と今後も治療予定が、ある程度決まってきましたので、渡邉医院の再開等の予定も含めてご報告したいと思います。随時、経過や今後の予定はホームページでご報告していきたいと思います。

 さて、私の今治療中の病名ですが、悪性リンパ腫です。

 悪性リンパ腫が、脳の下垂体付近に限局した腫瘍として出現しました。今、この悪性リンパ腫に対し抗がん剤による化学療法を行っています。

 抗がん剤投与など2週間を1クールとして、計5クールの予定です。5クールを終え、完解した後、最後の自己血移植を行い完治を目指します。副作用が強く出現することなく順調に治療すすめば、7月には全治療行程が終了する予定です。

8月の1か月間治療後の療養をおかないながら、9月から渡邉医院の再開への準備を行い、91日を目標に新しい「渡邉医院」の再開に向かっていきたいと思います。

現在、1クールが終わり、一時退院。また明日425日から再入院し2クール目に入ります。今のところ、心身ともに充実して2クール目に入ります。

今後の経過等、随時ホームページの方でご報告していきたいと思います。

今後もよろしお願いいたします。また、新しい「渡邉医院」を再開した際もよろしくお願いいたします。

また、体調とに問題なければ、Twitterでの相談も続けていきたいと思います。お尻の具合で心配なこと、不安なことがあれば、遠慮なくご相談ください。

 

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     渡邉医院

             渡邉 賢治

2022.04.17

「デコポンの自分で作るピンチョス」のレシピを紹介します。

 さて、今日は前回に引き続き、3月に紹介できなかった「3月のレシピ」の最後のレシピの紹介です。今回は「デコポンの自分で作るピンチョス」のレシピを紹介します。サブタイトルは、「口の中でびっくりマリアージュ。だまされたと思ってお試しあれ。」です。

 入院での治療の1クールが終わり、数日間退院してきています。また、2クール目への治療のために入院になりますが、主治医の先生には治療に関して「とても良いスタートがきれました。」と。いたって順調、いい感じです!

 さて、今回のレシピ、またまた私の知らない言葉が出てきました。皆さんはご存じかもしれませんが、「ピンチョス」です。いつもながら、チョット調べてみました。

 ウイキペディアでは次のように記載してありました。

「ピンチョス (単数形はピンチョ 西: pincho 、バスク語: pintxo 、「串」の意)は、小さく切ったパンに少量の食べ物がのせられた軽食のことである。名称はかつては食材を串や 楊枝でパンに刺して留めていたことに由来しているが、串や楊枝を用いないものもピンチョ(ス)と呼ばれる。タパの一種であり、現在はタパの同義語としてもつかわれる。 ピンチョスは、チキート(txikito)と呼ばれる赤ワインまたはスリート(zurito)と呼ばれる ビールとともに楽しむ アペタイザー である。」

またまたここにもわからない言葉が。「タバ」です。

そこでもう少し、この二つについて調べてみました。

「ピンチョス」とはスペイン料理の一種で、串や楊枝に刺した一口サイズの軽食のことだそうです。語源は「串」や「楊枝」を意味する「ピンチョ(pincho)」で、その複数形が「ピンチョス(pinchos)」になるとのこと。

ピンチョスは、主に複数の食材を串に刺して作られ、使われる食材は生ハムやオイルサーディン、ピクルス、魚介のマリネ、ベーコン、トマト、きのこなど幅広く、塩気や酸味が強いものが多いのでワインのおつまみにぴったりだそうです。また、これらの食材をパンの上にのせて切り分けた、一口サイズのカナッペのように串や楊枝を使わなくても「ピンチョス」と呼ばれるようです。

「ピンチョス」にはスペインと中南米のものがあるようです。

スペインの「ピンチョス」は、スペインの北部にあるバルでは。パンの上にバスク料理で良く知られる魚(メルーサ、タラ、アンチョビ等)や、スペイン風のオムレツ、肉詰めピーマン、コロッケ等が多くみられるとのことです。

中南米の「ピンチョス」は、バーベキューの串焼き料理のことを「ピンチョス」と呼ぶそうです。

 さて、もう一つの「タバ」ですが、「ピンチョス」とよく似ていますが、小さなお皿に料理を盛りつけた「小皿料理」のことを「タパス」と言うそうです。語源はスペイン語の壺を意味する「タパ(tapa)」で、その複数形が「タパス(tapas)」になるとのことです。

 前置きが長くなりました。そろそろレシピを紹介しますね。

「デコポンの自分で作るピンチョス」

材料

クリームチーズ 2個
塩昆布 大さじ1
デコポン 1個

作り方

1.クリームチーズを十字に四等分し塩こぶははさみで半分にカットする。
2.デコポンは皮をむいてひと房ずつに。皮も1cm角程度に切る。
3.1,2を盛り合わせる。
4.デコポン、クリームチーズ、塩昆布をまぶしてから皮を刺してピンチョス(串刺しのアテ)出来上がり。

管理栄養士さんから一言

 デコポンやぽんかん、清須ミカンなどご当地柑橘類が美味しい季節です。先月のミカンとおなじく皮ごとたべてもらう方法を考えてみました。塩こぶとクリームチーズもびっくりするほど好相性にて、ワインのお供にいかがでしょうか。

 

 

2022.04.16

「あみえびの新じゃがガーリック」のレシピを紹介します。

 今回は、レシピを紹介します。

 3月は、体調が悪かったり、休診にしたり、挙句の果てに今回の入院。バタバタとしているうちに過ぎてしまいました。そしてもう4月の半ばになります。

 せっかく管理栄養士さんに作っていただいたレシピ、紹介できない状況でした。少し遅ればせながら、3月のレシピの続きを紹介していきたいと思います。

 今日は「あみえびの新じゃがガーリック。」です。サブタイトルにはージャガイモは皮ごと調理で風味豊かにーです。

 新じゃがの旬の季節が心配で調べてみました。春先から夏場にかけてだそうで、まだまだ新じゃがのレシピ間に合うようで安心しました。

 渡邉家でもジャガイモとベーコン、その中にほうれん草が入ったものが食卓に出ます。ベーコンはカリカリに焼いたものが美味しいですよね。やはりジャガイモ、主食にもなるぐらい、美味しいですし飽きませんよね。私も炒め物だけでなく、一番好きなのが以前もお話ししたポテトサラダです。ポテトサラダだけでも白ご飯を頂けます。今回紹介する「あみえびの新じゃがガーリック。」ご飯のおかずにももってこいですよね。

 是非作ってみて下さいね。

 ではそろそろレシピを紹介しますね。

「あみえびの新じゃがガーリック。」

材料

ジャガイモ 4個
にんにく 1かけ
オリーブオイル 大さじ1
あみえび 大さじ2
セロリ葉 適宜

作り方

1.ジャガイモは芽を取り除き十字4つに切る。にんにくはあらくきざむ。
2.オリーブオイルとにんにくを入れた鍋を弱火にかけ香りを移し、ジャガイモを入れて火を強め軽く炒める。
3.ジャガイモが浸るくらいの水を加え、ふたをせず20分ほど加熱する。
4.水分が飛んだらあみえびを加えて軽く和え、火を止める
5.器に盛り、刻んだセロリ葉を載せる。

管理栄養士さんから一言
 南の方から新じゃがが届く季節です。加熱してもビタミンCが残りやすい、みんな大好きなジャガイモは芽をしっかり取り除き、皮ごと調理するようにしましょう。にんにくの香りが皮にも沁み皮の苦味も味わいの一つになってくれます。アミエビの旨味と彩りが春らしさを演出します。

2022.04.15

入院の想い出。「笑顔の子供たち」

 昨日の雨のおかげか、病室の窓から見える木々たちの若葉、美しく輝いています。命の力を感じます。同じ窓から見える景色、どんどん緑も濃くなり、変わっていくのだなあと思います。

 さて、これまで私が経験した4回の入院に関しての想い出をお話しさせてもらっています。今回はその第二弾です。1回目はとても痛い話でしたが、今回もちょっと痛い話もあります。よろしくお願いします。

 今回も走り高跳びでした。中学3年生の時に友達と草野球チームを作って試合をしていた時、ホームに滑り込んだ時に左膝に痛みを感じました。この時にすでに左膝の半月板の損傷を起こしていたようです。直ぐに痛みもとれ試合も続けたので、あまり気にせず過ごしていました。それの本格的な悪化です。

 走り高跳びを飛び終わった後、立ち上がろうと思っても、左膝が曲がったままで動かない。伸ばそうとすると、とても痛くて伸ばすこともできない。そんなことで、今回も第二日赤に入院することになりました。

 さて、いざ入院となると、高校生にもなると一般の人と一緒の病棟に入院することになっていました。でも病室がない。そんなことで、小児科病棟に入院させてもらうことになりました。

 痛みも少し落ち着き、テレビでも見に行こうかと、談話室?プレイルーム?でしょうか、言ってみると、小さな子供たちが、楽しそうに笑顔で遊んでいました。こんな感じの会話があったように記憶しています。子供「お兄ちゃんどうしたん?足が悪いん?一緒に遊ぼうか?」私「足が悪いからちょっと無理かなあ。」。子供「そうか。お兄ちゃんも早く良くなりや。」と。こんな感じだったかなあと思います。

 子供たちみんな、ここでは笑顔でみんな楽しそうにしているけれど、一人一人病気を持っていて、その病気と毎日戦っているんだなあと感じました。

 さて、そのころようやく関節鏡での手術が始まったばかりの頃だったと思います。整形外科の主治医の先生は、「まだ高校生。若いし、今回はまずは手術をしないで保存的に治療していきましょう。」と言われました。そしてしばらくの間、杖を突いての生活になりました。

ここで一つ自慢させていただきたいことがあります。それは、高校に入ってまだ半月板を完全に損傷する前のことですが、陸上部の先生から声をかけられました。先生は、そのころ京都の国体の選手のコーチをしていたと聞いていました。その先生から、「陸上部に入って、頑張ってみないか?君なら相当の成績を残すことができる。」という愛用でした。突然のことでびっくりしましたが、とてもうれしく、心躍りました。でも、そのころから少し膝に不安があったこと、また、なんとなくですが、医学部の受験も考えていたので、踏み切ることができずにお断りしてしまいました。今から思うと、ここで一発青春を謳歌しても良かったなあと思っています。最後に先生が、「君ならどのスポーツをやっても優秀な成績を残せるよ!」と言って下さりとてもうれしく、これが私の自慢です。

 そんな私が、スポーツもできずに杖を使っての生活。しばらく荒れた生活を送ってしまいました。そんな私を変えたのが父の言葉でした。「お前の悔しい気持ちはよくわかる。でもおまえを生んで育ててくれたお母さんが、今のお前の姿をどう思ってみているか、考えたことがあるか!」でした。その言葉で自分を取り戻すことができました。

 そうなると、私の世界が一変しました。今まで気が付かなかったことが目に飛び込んでくるようになりました。私と同じように杖を突いて歩いている方、車いすで移動されている方、そして障害がある方々等、今まででも本当は見えていたはずだったものが見えていなかった。自分はこれまで何を見てきていたんだろうと感じました。自分が経験することで、自分自身の世界が一つづつ確実に広がっていくんですね。

 できれば怪我や病気、入院などはしたくありません。でもそのことでこれまで、私の生き方をどんどん変化させてくれて来たことも事実です。私にとってとても大切な時間でした。   

 次回3回目の入院につづく。

2022.04.14

入院の想い出。「痛い!骨折」

 今、入院して療養中です。3月の半ばごろから具合がだんだん悪くなり、328日に受診した際に、緊急で入院となりました。入院した時は本当に全身がぼろぼろの状態でしたが、今ではもう、食事も本当に美味しく食べられるまでになっています。入院して2日目の朝食に出てきた刻んだソーセージや野菜が入っているトマトスープを飲んだ時は、「こんなに美味しく食べられるんだ!」と思わず涙が出てきたくらいです。もう少し治療が必要なようです。しっかり回復して渡邉医院を再開させるので、その時はよろしくお願いいたします。

 さて、わたしは今回で5回目の入院になります。結構何回も入院しているんだなあと思います。

 今回は4回に分けてその時の入院の想い出を紹介したいと思います。久しぶりのブログなので、誤字脱字はご容赦下さいね。

 1回目の入院は、小学校の6年生の頃でした。1970年の大阪万博の夏に小学5年生で京都に帰ってきました。ですから11歳。51年前のことです。

 走り高跳びが課題の体育の時間でした。徐々に高跳びのバーの高さが高くなっていき、脱落していく友達が増えていく中、最後にとうとう私と、もう一人の友達の二人になってしまいました。

 もともと、学校には体育の授業に行くと言っていいほどスポーツが好きで、今でもそうですが、意外と負けず嫌いで無謀な性格。「クラスで一番になりたい!」という思いで思いっきりジャンプ!着地が悪かったのか、本当に「ボキッ!!」という音が聞こえた記憶があります。気が付くと右前腕がとんでもなく折れ曲がっていて、とても痛すぎて、痛すぎて、「痛い。」とも言えない状況でした。

 そのころの第二日赤病院に運ばれ、徒手整復を試みていただいたのですが、右前腕の橈骨と尺骨の2本とも折れていたので、徒手整復はできずに、次の日の手術で治すことになりました。

 その日の夜は、痛みが強く眠れずに、痛み止めをいただいて少しうつらうつらしている際に見た夢が、私の腕を境界にして、両側で戦争をしている夢でした。どんな時も、戦争反対!です。

 翌日やっと手術。手術は右腕の伝達麻酔だったのか、意識はしっかりありました。トンカチのようなもので、「トンカン、トンカン」と音が聞こえていました。髄内釘を挿入していたのでしょう。

 ある程度、治ったところで髄内釘を抜去しました。その髄内手は、ずっと締まってあります。おそらく今も、実家のどこかに眠っているはずです。あるかなあ。

 この右腕の骨折のおかげで、左手である程度字を書いたりご飯を食べたりできるようになりました。やっぱり、得るところの何かあると思います。

 初回、入院の想い出はとても痛い思い出でした。

次回につづく。

2022.03.05

3月のレシピ「豚こまとスナップエンドウのさっぱり炒め。」を紹介します。

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医院情報

院名 渡邉医院
住所 〒602-8462
京都府京都市上京区浄福寺通今出川下ル
竪亀屋町255
TEL 075-441-4303

診療時間

診療時間 日・祝
9:00~12:00

※術後の患者さんも緊急対応いたします。
※日曜日・祝日は休診です。
※△は手術日となります。
※第3土曜日は休診にさせていただきます。
※完全予約制ですので、必ずお電話して頂き、予約してからの受診をお願いいたします。
予約の電話受付は平日12:00-14:30です。